陶真の学年が上がるにつれて、塾の費用への負担が増え続けていました。
ある程度、予想はしていましたが、もう少し私の収入を増やすことができないかと思っていたところ、ある広告が目にとまりました。
それは、3歳児から中学生までを対象とした「英会話塾の教室」開設募集の広告でした。
条件は何とか満たしていたようなので、さっそく面接へ行くことにしました。
面接会場では、1対1での面談があり、そのあと開設できるかどうかの適正テストがありました。
久しぶりのテストを、ドキドキしながら受けることになりました。
数日後「開設決定通知」が届き、教室開設のための研修を受けたあと、翌年から「英会話塾の教室」を自宅で始めることになりました。
学校関係のパートをお昼過ぎに終わって、息つくことなく、帰宅後レッスンするという日もありましたが、陶真のために私にできることをすることが、私の中でいちばん重要なことでした。
英語がもともと好きだったので、子どもたちと一緒に英語にふれ、ともに切磋琢磨し、その成長を見守っていくことは、私にとっても有意義な時間になりました。
英会話のほかに、漢字や国語や算数のクラスを始め、私も含め「漢字検定」や「英語検定」を受検し、あらためて学びの中の楽しさを感じていました。
そのとき私は、自分の子どものころを思い出していました—。
当時の私の母は、いわゆる「教育ママ」と呼ぶにふさわしい母親でした。
教育機関の保健師をしていたことと、まじめで負けず嫌いな性格もあってか、私への教育に対しても厳しい目を向けていました。
学校での成績やピアノなどの習い事の進み具合、その他あらゆることに母の干渉があり、母の知り合いの優秀な子どもたちと比較されることが度々ありました。
そんなとき「悔しくて頑張ろう」という気持ちよりも、どんどん「自信」をなくし、母のことを疎ましく遠ざけたいと思うようになっていきました。
ひとりっ子ということもあってか、競争心が乏しく、のんびりしている私は、学力にしろ、習い事にしろ、母が望む娘には到底なれないと思っていました。
そんな私も今では、私が高校生のとき、病の末に亡くなった母に対し、感謝の気持ちを強く持てるようになりました。
そしてあの頃の母の厳しさは、私の将来を心配するがゆえのことで、そうすることが、母なりの私への愛情だったことが理解できるようになりました。
現に夏休みや冬休みには、毎年それを、母は楽しみにしているかのように、いろんな場所へ一緒に行って、登山やスキーを経験する機会を与えてくれていたからでした。
何といっても、今だに身についている知識は、小学生だった私が、母から教わった学ぶ習慣によって得られたものでした。
例えば英単語を思い出そうとするとき、頭の中に引き出しがあるとすれば、小学生から高校生のあいだに「身につけた知識」の引き出しからが、いちばん容易に取り出せる気がしました。
そして当時の母の厳しさがあったからこそ、今でも、成績を上げるための学びの中の楽しさや、努力して得た満足できる結果への達成感を感じることができるのだということがわかりました。
とはいえ、当然のこと、私は私の母と同じようになることはできません。
似ているところがあるにしても、実のところ育った環境や兄弟関係などの多くは違っていて、私は私なりの関わりかたで、わが子へ向き合うことになりました。
母が私に遺してくれた、私の心に残る、この世にたったひとつの「母からの愛情」を糧としながら…。
「夫は」といえば…
私が自宅で教室を始めたころと時を同じくして、夫も仕事の転換期をむかえることになりました。
夫が勤めていた会社が移転することになりそうだと、帰宅した夫から聞きました。
その移転先というのは、今よりも遠く、勤務時間も長くなるとのことでした。
元々は、独立する気持ちがあったので、思いきってサラリーマンを辞める決心を固めることにしました。
理由の一つには、陶真の送り迎えができなくなるというものでした。
とにかく夫は、わが子たちのことを優先的に考えていて、そのイクメンぶりには目を見張るものがありました。
その理由として…。
夫が潜在的に抱えていた「あること」が元となっていて、私の子ども時代とは、まるで対称的だったことを徐々に知ることになりました。
夫には、双子の妹と弟がいました。
夫が幼稚園に通うようになったころ、一度に妹と弟ができました。
それまでの夫は、夫の兄が幼くして急逝したこともあり、祖父母と両親の愛情を一心に受けていましたが、双子の妹と弟に、一瞬にしてその座を奪われることになりました。
「お兄ちゃんなんやから、おばあちゃんのところでいい子にしててよ」と祖父母に預けられ、幼かった夫にかかわる母の時間さえも失われていきました。
小学生だった夫は、足が速くて、運動神経も良かったことで、少年野球のピッチャーに選ばれるほどでした。
それでも夫の母は、夫がピッチャーとなる試合にさえ、一度も応援に来ることはありませんでした。
そこには、私とはまるで対称的な環境で、寂しい思いを抱えていた幼い夫がいました。
思春期には、両親からの愛情が得られない寂しさが、外へ向かうことになり、やんちゃな友だちと群れて遊ぶことで紛らわし、母に心配をかけることで、自分に対する母の関心を得ていたのでした。
そして夫は、自分が親となって初めて、当時の自分の母への感情を知ることになりました。
そういう自分の経験から「下の子に手をとられて、上の子をおざなりにしないようにすること」と「どの子にもわけへだてなく愛情をもって接すること」に、夫はいつも気を配っているかのようでした。
ドミノ倒しの牌(はい)が、次々倒れ、完成に向かうように、「中学受験」を決めてからの私たちに、次々と今までにないできごとが訪れ、望む未来へ向かってすすんでいる気がしていました。
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