コロナ禍に見舞われてから1年が過ぎようとしていました。
そんな中、高2生になった涼佑は、臨機応変な対応による学校側の指導の下、公立中高が6年間で学ぶことを、私立中高は5年間で習得するべく、「対面授業」と「オンライン授業」とで、コロナ禍といえども「学びを止めないこと」が最優先されていました。
大学受験のための模試も日を追うごとに増え、例年によって2か月に1回の受験となりました。
保護者不参加となりましたが、文化祭などの行事も例年並みに開催され、コロナ禍の合間をすり抜けるように、国内への研修旅行も予定通りに行われました。
【高2生の涼佑】
4月―一斉保護者会
5月―①定期考査
6月―模試、文化祭
模試)現在の自分の立ち位置を確認する/自分の得意教科と不得意教科を知る/入試の予行演習になる/本番に向かって計画をたてる練習となる/
(外部模試でしたが、学校全体必須での受験でした)
7月―②定期考査、5日間勉強合宿
8月―模試
10月―③定期考査、体育祭、3泊4日の国内研修旅行、模試
12月―④定期考査、保護者会(3者面談)
1月―書き初め、模試
3月―⑤定期考査、フェアウエルパーティー
【高2生の12月―3者面談では】
担任の先生、涼佑、夫と私での面談では、志望校を伝え、そこに向かうには今後どういう対策をしていけばいいかといったことや現時点での合格の可能性などを話し合うことになっていました。
「現役でしか(大学へ)行かせませんから。それと国公立(大学)だけね!」と、あからさまな本音を断定的にいう夫に、恥ずかしさを感じながらも、私にとってもそれが核心であったのも事実でした。
私立中高一貫校入学当初からずっと経済的なことが、心配の種であった私たちにとって、それは悲願ともいえる、ある意味で志望校を越えたところにある絶対条件かもしれませんでした。
そんな夫の発言を、表情ひとつ変えず静かに聞いていた涼佑は、担任の先生から「お父さんは、そう言ってますけど、どうですか?」と聞かれると、「はい、それでいいです」とこたえました。
そのとき、夫は安堵の表情を見せていましたが、涼佑が本当のところどう思っていたのかを思うと、私は心が少し痛むのを感じました。
夫は「俺らにしたらあいつらに私立中学に行かせてること自体がぜいたくすぎる」と、事あるごとに、口をついて出ることが多くなりました。
夫は自らの提案によって始まったといえ、中学受験という重圧に押しつぶされそうになりながら懸命に堪え、最後まで自分の役目を果たそうとしているようでした。
そうは言っても、涼佑の周りにいる同級生の保護者たちは、きっともっと経済的に寛大になれるんだろうなと思うと、夫の本音の言葉が、涼佑の心に暗い影を落とさないでいてくれることを願いました。
わが子たちには恵まれた環境を充分与えたつもりになっていましたが、まだまだそうではなかったことに、このとき私の中で気づくことになりました。
高2から文理選択したクラスでの涼佑の順位といえば、下から1位2位を争うくらいの成績でした。
そのクラスの上位者たちは、医学部や超難関国公立をめざせる同級生でした。
彼らの多くは、それこそ灘中などの超難関中学が第一志望校であったなど、小学生のころから高い目標を掲げ、それに向かってたゆまぬ努力を惜しまず、そしてそれを継続できる才能の持ち主でした。
そんなクラスの空気に何らかの影響を受けたおかげなのか、彼らには到底追いつけないと自負していた涼佑も少しずつ成績が上がり始めていました。
【部活動について】
涼佑は、高1生になってまもなく、中学のときとは違う運動部の部活に入部していました。
高2生になり部長を任され、放課後の週3日の練習、そして他校との試合にも参加し、部活の仲間たちとの学校生活は楽しく、それなりに充実していたように感じました。
高3生になった1学期に引退試合があり、そのあとの放課後のすべては、大学受験のための時間に変わっていきました。
私たちが中学受験を目指してから、はや10年以上が過ぎました。
コロナ禍など不測の事態も何とかくぐり抜け、念願の私立中高一貫校卒業まであと1年余りとなりました。
返信がありません