次男の私立一貫校卒業までのお財布事情(1)⦅中学受験~⦆

【親世代年収比】

年収       公立中学 / 私立中学
~400       10.2     3.8
400~600     21.2     6.2☆
600~800     26.6     15.2
800~1000     20.5     16.8
1000~1200    11.3     17.7
1200~      10.3     40.1

出典:令和3年文科省「学習費調査」


私たち家族は☆印のところでしたので、次男の涼佑私立中高一貫校でも1割ほどの少数派でした。
毎月の学費と通学費で、82,800円で、その他にも部活動にかかる交通費、今後海外研修旅行にかかるオイルサーチャージやお小遣い、仲の良い同級生たちとのおでかけのためのお小遣いなどが不定期で加算されました。

そのため、月に何度かの外食がほぼゼロになり、家族旅行も封印して、生活にかかる日用品や被服費も必要最低限にし、削れるところは最大限にしました。
そして夫は自営業のかたわら、時間給を稼ぎにいくことになりました。

私も塾講師として教科を増やし受講生を増やすために、講習や検定試験を受けるかたわら、今までのパートからより収入が増えるパートへ移ることにしました。

夫も私も、そんな日常生活が続く中、精神的な疲労と肉体的な疲労が積み重なっていき、そろそろ限界をむかえる手前まできていました。
陶真の学費の余波がのしかかる上に、涼佑の学校は地域で一二を争う高額な授業料…。

はたしてこのままやっていけるのか、私たちにはやはり荷が重たすぎるのか?

私たち家族が抱えるには大きすぎる風船は、まさに破裂寸前のようでした。


【さらに深まる義父母たちとの溝】

そんなあるとき、藁にもすがる思いの夫は、ついに疎遠になりつつある義父へ金銭的な援助を申し出ることを決め、私の知らないあいだに、義父宅を訪ねていました。

その日の夕方、帰ってきた夫の落ち着かないようすを不信に思っていると玄関扉が開き、声がしました。
「おい、おるやろ。上がるで」と義父母が、私たちのいるリビングへ入ってきました。
あいさつもそこそこに、義父が「あんたとこも大変やろうから、これ置いて行くわな」と財布から数枚の紙幣を取り出し、私に手渡しました。
その訳を知らずにいた私に「わしらも年金とわしの少ない給料でやってるんや。お義母さんも病院通ってるやろ?今日は、こんだけ渡しとくな」と義父は言い、私はとりあえずのお礼を言うのが精いっぱいでした。

義父母が帰ったあと、夫は私に「おまえに言ってなかったけど、俺が頼んだから、親父らが来たんや」と、義父からの援助を受け、少しホッとした様子の夫が見て取れました。
ただ私はこのとき、夫とは反対に、義母のある言動に、一抹の不安を感じていたのでした。

思えばこれが波乱の幕開けとなり、夫と義父母の親子関係の悪化も、同時進行していくことになりました。



それから数カ月が経ったころ、毎月の負担をお願いしてばかりでは心もとない気持ちが先立ち、いっそのこと同居して、家賃としての援助を選択肢のひとつとして提案してみました。
そうとはいえ、夫と義母はまわりが周知する「なさぬ仲の2人」でしたので、一つ屋根の下で生活していくことが果たしていつまで続けられるのか、とても不安でもありましたが…。

すると、その話には、不思議に義母の方が乗り気になり、即答で同居が決まりました。

ところが、そのあとすぐ私の不安が早くも形となってあらわれることになりました。
夫と私が案を巡らせ、足の不自由な義母の負担にならないように、1階の部屋を使ってもらうことに決めていたのを覆し、3階のいちばん広くて明るい、生徒たちの教室として使うつもりだった部屋を使いたいと、義母からの強い主張が何度もあったのでした。

まだ同居も始まらないうちから、夫と義母とのあいだに対立が起こったことで、少し時間を置いた方がお互いのためではないかと思い、義父母の借りていた部屋の不動産仲介業者への解約手続きの直前、
「少し同居の件、延期してもらえませんか?」と義父に申し入れたところ、訳も聞かずに、
「わかりました。もうそっちへは引っ越しません」と、ぶっきらぼうに電話が切れてしまいました。

そのとき、私が見過ごせなかった義母のある言動を思い出していました。
それは、夫が金銭的な援助を初めて申し出たとき、義父がこころよくお財布からお金を取り出そうとしていたのを、義母が小声で「なんで渡すの?渡さんでええやないの」と言いながら、そうさせまいと義父のその手をさえぎろうとしていたことでした。

そして、義父母との同居の話があっけなく消え去ったと同時に、お互いに連絡が途絶え、毎月の援助も消え失せることになりました。

それ以降、夫と私のあいだには、険悪な雰囲気がしょっちゅう漂い、爆弾を抱えたまま、為す術を失っている状態がしばらく続いていました。
そのときの私にとって唯一の救いは、涼佑が朝早く登校し夜遅く帰るという生活で、そんな夫と私のようすを、ほとんど目の当たりにしないで済んでいたことでした。

眠れぬ日が毎夜となり、食欲もなくなり、限界を迎えていましたが、ふとある考えが頭に浮かび、疲れ果てている夫に、聞く耳があるかという少しの不安はありましたが、やはりこうするほかないと私の中で覚悟を決め、夫に話すことにしました。

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