【念願かなって満足のマイホーム暮らしが一転…】
十数年前、いくつかの区をまたぎ、毎日曜日といえるほど、夫と私は、マイホームとなるお家探しをしていました。
中古、新築、一軒家、マンションにこだわらず、少しでも気になったものがあれば、外観を見に行ったり、内覧をお願いしたりしていました。
いつものように新聞折込の不動産会社のチラシのを見ていて、ふと目にとまったことが、当時のわが家との出会いでした。
なぜかその一軒家がすごく気になり、そののち中学受験をしようと決めたときと似た、ワクワクと高揚した気分をその家に感じました。
それは新築の3階建てで、広さも間取りも、その頃の私たちにはちょうどよく、明るく風通しも良いようでした。
棟上げもまだでしたが、立地も悪くなかったので、不動産会社の営業マンに背中を押されたことで、現地見学の次の日にはローンの審査を申し込んでいました。
案の定、ありきたりな普通のサラリーマンの夫と週2回のパートに出るだけという私たちでしたので、銀行の融資がおりるまでに何行か断られました。
それでも何とか取引銀行が決まり、私たちは念願のマイホームを手に入れることができました。
棟上げや内装工事をおこなっている様子を何度も足を運んで見に行き、数か月後の初春、次男の涼佑がよちよち歩きを始めたころ、待ちに待ったわが家への引っ越しとなりました。
【十数年後の私たちに残された道は…】
義父母からの助けを得られなくなったことで、私たち家族にとって思い入れのある、大満足のわが家を手放す選択をしなければならないことは、とても苦しくて、とても辛いことでした。
それでもやはり私には、涼佑にとっての、夫や私が行くことができなかった場所へのとびらを、ここで閉ざしてしまうわけにはいきませんでした。
「この家、売りに出さへん?」と言った私に、すかさず夫は「この家は売らん。何で売らなあかんねん」と語気を強めて言い放ちました。
私「歳とったら3階には上がられへんから、この家は無理やなって言ってなかった?」
夫「それはまだ先の話やろ」
私「昨日もおとといも3階へ上がるのに足が痛いって言ってたやん」
夫「……。それやったら、それやったら勝手にせえや。俺は知らん」
私「わかったわ。不動産屋に連絡して査定してもらうから」
夫「俺は知らんから」
そう言った夫の言葉に、そのときの私は無責任な夫だと感じていました。
けれどその言葉は、夫も私と同じように、自分の意図とは異なるところでわが家を手放さすことになるという辛さを感じ、やり場のない気持ちから出てしまったのだと、そのときは気づくことができませんでした。
数日後、家を売却する決意を固めた私は、ふう~っと息をひとつ吐き出し、聞き覚えのある不動産会社4社へ査定をお願いするため、続けざまに電話をかけました。
2社めにかけた不動産会社の電話口で「地域担当のモリオカと言います」と言ったそのとき、私の旧姓である「モリオ」が一瞬にして思い出されたことに、何か不思議な縁を感じ、モリオカさんのいる不動産会社にわが家の査定をお願いしようと決めました。
【運よい偶然の3つの重なり】
①モリオカさんという営業マンがとても的を得た対応をしてくれたこと
②マキノさん家族と出会えたこと
③初めての内覧で購入を決めていただけたこと
夫と私の本音をいうと、なるべく早く、希望通りの金額での売却を希望していました。
そして、住み替えのお家は、気にいれば購入したいというのも伝えていました。
・モリオカさんは、査定というより、こちらで決めた売却を希望する金額を、広告チラシに掲載することを勧めてくださいました。
・広告を掲載してすぐに、マキノさん家族を内覧のため、連れてきていただきました。
マキノさんは、パティシエのダンナさまを持つ保育士でもあり、幼稚園に通う娘さんともうすぐ2人目が誕生するママさんでもありました。
・内覧のときには、もうすでに購入を決められていたようでした。
そのときお母さまもご一緒で、こちらも娘さん思いの本当にステキ方で、こんなご家族にならぜひ住んでいただきたいと心底思えました。
わが家の売却は、半年も経たないあいだにとんとん拍子に進んで行き、売却価格は購入価格を優に上回り、私たちの希望通りとなりました。
これで当面の涼佑の学費の心配がなくなり、ひと息つくことができました。
私たちが次に住む購入物件がすぐには見当たりそうになかったので、ひとまず賃貸マンションに引っ越すことにしました。
少しでも家計を助けようと、誰もが知る某大手企業の下で、英会話教室を自宅でしていましたが、自宅を手放すことが決まり、いったん教室を閉講することにしました。
その企業の規定によると、開講した年からの偶数年でしか、閉講できないことになっていました。
もしそれが無理な場合は、違約金が発生するため、引っ越したあとの数か月間、月極の貸し教室で、教室を続行しました。
そしてその翌年の3月に、教室に通ってくれていたかわいい生徒たちとの楽しく、私自身も学びが得られた英会話塾講師としての数年間が終わりをむかえました。
唯いつ、今は涼佑を卒業させることだけを、ただそれだけを優先したいと思いました。
私にできるすべてをやりきりたいと思いました。
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